×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
たいへんご無沙汰いたしております。長崎です。
意図するところがあり、穂波半太郎に関する記事をすべて公開終了ということにいたしました。現在、オフラインでまとめる作業をおこなっていますので、悪しからずご海容ください。
最終更新からかなりの時間が経っていることを併せてお詫びいたします。
いつもご高覧にあずかり恐縮です。
またの更新をお待ちください。
長崎うめの 拝
意図するところがあり、穂波半太郎に関する記事をすべて公開終了ということにいたしました。現在、オフラインでまとめる作業をおこなっていますので、悪しからずご海容ください。
最終更新からかなりの時間が経っていることを併せてお詫びいたします。
いつもご高覧にあずかり恐縮です。
またの更新をお待ちください。
長崎うめの 拝
PR
今まで色々な都市で仕事をしてきた甘木ですが…福岡の街で仕事をしていると、雑多な人々が混在しているなぁと思います。大阪や東京ではある程度棲み分けが出来ている、というか少し距離があったように感じていたのですが、福岡にはそれがないように思います。古くから貿易港としての性格を持ち、大陸との交流が盛んだった故に住んでいる方々にも自然と国際感覚が身に付いているのかも知れませんね。
この記事の公開は終了しました。
現在まとめ作業をおこなっています。
悪しからずご海容ください。
長崎うめの 拝
土佐出身でありながら玄洋社と深く関わり…日中関係の改善に向けて最大の努力を傾けた真摯な人物です。古くは満州義軍に参加。犬養木堂翁の私的な特使として蒋介石の国民党政権との和平を含めた交渉を担うなどしています。その生涯をさぐることで今後の日中関係を考える上での一つの指針になろうかと思います。また玄洋社を中心に唱えられてきた本当の意味での『大アジア主義』の意味を明らかにし、玄洋社の魅力の一つである『柔軟な思考による緩やかな連帯』を加味して現代に反映させる事も可能ではないかと考えています。
こんばんは、長崎です。
「穂波半太郎に関する記録」の続きを書く予定でしたが、準備が整わず、次回まで延ばすことになりました。
申し訳ありません。
さて、今日から5月です。
5月1日といえば、今から132年前の明治10(1877)年5月1日、福岡の変の首謀者として捕縛された、越智彦四郎・久光忍太郎・加藤堅武・村上彦十が処刑された日にあたります。
処刑当日、この日は午前頃まで晴天で、午後から雨になったといいます。
それぞれの罪状は、宣告文によると
越智彦四郎
其方儀朝憲ヲ憚ラズ党与ヲ募リ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗シ逆意ヲ逞フスル科ニ依リ除族ノ上斬罪申附ル
久光忍太郎
其方儀越智彦四郎ノ逆意ヲ佐ケ衆ヲ集メ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗スルノ科ニ依リ除族ノ上斬罪申附ル
加藤堅武
其方儀越智彦四郎ノ逆意ヲ佐ケ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗スル而巳ナラズ民家ニ放火セシムル科ニ依リ除族ノ上斬罪申附ル
村上彦十
其方儀越智彦四郎ノ逆意ヲ佐ケ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗スル而巳ナラズ懲役場ニ乱入シ罪人ヲ解散セシムル科ニ依リ除族ノ上斬罪申附ル
ということでした(清漣野生『明治丁丑福岡表警聞懐旧談』大和叢書第2号、1973年 所引)。
ところで、人名というのは非常に難しいもので、読みによって違う漢字があてられている場合はまだ助かるのですが、同じ漢字で違う読みをしている場合はとても困ります。
私は長い間「久光忍太郎」は「ひさみつおしたろう」であると思っていたのですが、同時代史料である『横田文書』明治10年5月1日の記事では、「忍」の字にのみ「タケ」とカナが振ってあったのです。
つまり、少なくとも日記を記した横田徐翁は「タケタロウ」と認識していたことになり、しかもわざわざ「忍」の字にのみカナを振ったということは、読みが特殊であると知っていたというにほかならないのではないでしょうか。
次回こそは「穂波半太郎に関する記録」の続きを書こうと思います。
次回は、佐賀の乱に際する穂波の行動です。
「穂波半太郎に関する記録」の続きを書く予定でしたが、準備が整わず、次回まで延ばすことになりました。
申し訳ありません。
さて、今日から5月です。
5月1日といえば、今から132年前の明治10(1877)年5月1日、福岡の変の首謀者として捕縛された、越智彦四郎・久光忍太郎・加藤堅武・村上彦十が処刑された日にあたります。
処刑当日、この日は午前頃まで晴天で、午後から雨になったといいます。
それぞれの罪状は、宣告文によると
越智彦四郎
其方儀朝憲ヲ憚ラズ党与ヲ募リ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗シ逆意ヲ逞フスル科ニ依リ除族ノ上斬罪申附ル
久光忍太郎
其方儀越智彦四郎ノ逆意ヲ佐ケ衆ヲ集メ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗スルノ科ニ依リ除族ノ上斬罪申附ル
加藤堅武
其方儀越智彦四郎ノ逆意ヲ佐ケ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗スル而巳ナラズ民家ニ放火セシムル科ニ依リ除族ノ上斬罪申附ル
村上彦十
其方儀越智彦四郎ノ逆意ヲ佐ケ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗スル而巳ナラズ懲役場ニ乱入シ罪人ヲ解散セシムル科ニ依リ除族ノ上斬罪申附ル
ということでした(清漣野生『明治丁丑福岡表警聞懐旧談』大和叢書第2号、1973年 所引)。
ところで、人名というのは非常に難しいもので、読みによって違う漢字があてられている場合はまだ助かるのですが、同じ漢字で違う読みをしている場合はとても困ります。
私は長い間「久光忍太郎」は「ひさみつおしたろう」であると思っていたのですが、同時代史料である『横田文書』明治10年5月1日の記事では、「忍」の字にのみ「タケ」とカナが振ってあったのです。
つまり、少なくとも日記を記した横田徐翁は「タケタロウ」と認識していたことになり、しかもわざわざ「忍」の字にのみカナを振ったということは、読みが特殊であると知っていたというにほかならないのではないでしょうか。
次回こそは「穂波半太郎に関する記録」の続きを書こうと思います。
次回は、佐賀の乱に際する穂波の行動です。
先日岩波文庫の『三十三年の夢』を読んでいました。末永節翁が出てくる場面でふと巻末の索引を引いてみた所…没年が
『1965年』
になっていました。生年が1869年となっていますから…没年令が
『95才』
となります。確か昭和35(1960)年8月18日に92才で亡くなっていたと思いますから、逆算すると明治元(1868)年生まれ、となり三年の誤差があります。これは一体何故なんでしょう。書き間違えたか誤植か…と言った所だとは思いますが。また、もうひとつ疑問があるのですが…文中
『末永翁は滔天より一つ年長』
と言う事なのですが…先ほどの換算を比較するとどうやら二歳上?のような…でも改暦の都合もあるでしょうし、年齢に対する大らかさもあり、また枝葉の部分ですから…拘る程のものでもないのですが、少し気になったのでつらつらと書いておきます。
『1965年』
になっていました。生年が1869年となっていますから…没年令が
『95才』
となります。確か昭和35(1960)年8月18日に92才で亡くなっていたと思いますから、逆算すると明治元(1868)年生まれ、となり三年の誤差があります。これは一体何故なんでしょう。書き間違えたか誤植か…と言った所だとは思いますが。また、もうひとつ疑問があるのですが…文中
『末永翁は滔天より一つ年長』
と言う事なのですが…先ほどの換算を比較するとどうやら二歳上?のような…でも改暦の都合もあるでしょうし、年齢に対する大らかさもあり、また枝葉の部分ですから…拘る程のものでもないのですが、少し気になったのでつらつらと書いておきます。
この記事の公開は終了しました。
現在まとめ作業をおこなっています。
悪しからずご海容ください。
長崎うめの 拝
次のページ
>>
カレンダー
03 | 2024/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 |
ブログ内検索
最新記事
(12/08)
(05/13)
(05/08)
(05/04)
(05/02)
(04/29)
(04/29)
最新コメント
[03/05 長崎うめの @ 管理人]
[03/05 久美子]
[03/12 甘木次郎@管理人]
[03/11 杉山満丸]
[04/20 長崎うめのas管理人]
[04/20 安藤]
[04/17 長崎うめのas管理人]